「初めに言葉ありき」はホツマがルーツ!

ホツマツタヱの図表

イエスキリストと日本の神の教え

イエスキリストの生誕は、伊勢神宮創建とほぼ同じ時期BC4年です。BC4年9月16日が創建の祝い、17日は心御柱が建てられた日で、現在は新暦換算で10月16日・17日と前後数日間に伊勢神宮で最も重要な祭礼、神嘗祭が催されています。イエスキリストがベツレヘムで生誕した際、東方から(3人の)博士が祝福に駆けつけて、没薬・乳香・黄金を捧げたとされますが、おそらくこの時に生誕間もないイエスキリストに、日本の神の教え=トの教えが伝えられたのではないでしょうか。

その核心がホツマに記されている通り、天の根源の神を守護する48の言霊の神の思想であり、それが新約聖書、ヨハネ(=48音)による福音書の冒頭に「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と記されていることからそう言えます。

アウワ=天御祖神を中心として、トホカミヱヒタメ・アイフヘモヲスシ以下32の言霊の神によって、総べては作り出され、守られていることが、ホツマに詳細に記されています。フトマニ図に示されている通り「言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」のです。日本語の5母音はそれぞれ あ=空 い=風 う=火 え=水 お=地(埴)を示します。ホツマでは48音の一つ一つが神として描かれています。

鳥居礼氏『完訳秀真伝(ホツマツタヱ)』14紋より:

「高天原に鎮座される、天御祖神および四十八音神の四十九の神々は、三つの位に分かれ鎮まっておられる。
まず天御祖神と、その八隅をご守護し、地上での出来事をご報告するトホカミヱヒタメ八神を元の位、次にアイフヘモヲスシ神を中の位、また三十二の印相彦神(たみめひこのかみ)を末の位とし、十六万八千の随神を従え御鎮座されている。
人が生まれるとき、元つ神である、天御祖神と、その神を霊妙なる神力で守護されているトホカミヱヒタメ八神が、種である魂の緒を分け下し、物と魂魄の三つを結び合わせる。アイフヘモヲスシの天並神(あなみかみ)は五臓六腑および血脈や音声を整える。また眉目形(みめかたち=容姿)は三十二神が守護されるのである。」

天の中心の神と言霊の神により人は作られ、守護されているのです。
『新約聖書』ヨハネによる福音書の、言葉が神である、言葉(の神)が(天の中心の)神とともにある、言葉が全てのものを作り出したことの具体的説明が、『古事記』・『日本書紀』ではなく、本来の日本の神道の根本の書である『ホツマツタヱ』に詳細に記されていることを紹介しました。

イエスキリストは、十字架での処刑に身代わりを立てて免れ、日本へ渡った、という説があります。四国や東北でその痕跡らしいとされる場所もあるようですが、イエスキリストが言霊について解明するためにやってきた、と考えるのは決してありえないことではなく、むしろ必然といえるでしょう。


言葉で病気が治る?!言霊が持つ奇跡の力

(Note mami 2024年12月28日 より引用)
重要なレポートですので、そのまま紹介します。

「言葉には魂が宿り、現実を変える力がある」――これが古来から信じられてきた日本の伝統的な概念ともいえる「言霊」です。その力は単なる精神的な癒しにとどまらず、実際に病気が治るほどの影響を持つとされています。言霊が人間の身体と心にどのように作用し、病気を治して健康を取り戻す手助けをしてくれるのか、今回はその具体的なメカニズムを紐解いていきたいと思います。

言霊で病気が治る仕組み

言霊で病気が治る、と言われた時に、きっと多くの人が最初に胡散臭さを感じるでしょう。そこで、まずは言霊で病気が治るメカニズムについて紹介していきたいと思います。

ポジティブな言葉が免疫力を高める

ポジティブな言葉を繰り返し発することで、脳内では「セロトニン」や「オキシトシン」といったホルモンが分泌されます。こうしたホルモンは私たちのストレスを軽減し、免疫細胞であるナチュラルキラー細胞(NK細胞)を活性化させてくれるということは広く知られています。言霊によって生み出されたポジティブなエネルギーは、病原菌やがん細胞の排除を促し、体内の治癒プロセスを加速してくれるのです。

音波としての言葉が細胞修復を促す

言葉は音波として身体に伝わり、その振動が細胞に影響を与えるとも言われています。特定の周波数を持つ言葉や音声は、細胞膜やDNAに直接作用し、修復を促進する可能性を秘めているのです。たとえば、「ありがとう」「病気は治る」という言葉を繰り返し発することで、身体がその波動に反応し、損傷を受けた細胞の再生が進むというケースも報告されています。

自律神経の調整で自然治癒力を活性化

ポジティブな言葉を使うことで、副交感神経が活性化し、身体がリラックス状態に入ります。そのほかにも副交感神経が活性化すると血流が改善し、臓器の働きが正常化したり、白血球や抗体の生成が促進されるため、感染症や慢性疾患の回復が早まることもあるのです。言霊は、自然治癒力を最大限に引き出す強力なツールと言えるでしょう。

祈りの言霊が集団治癒をもたらす

言霊はもちろん私たち一人一人が個人的にその力を信じて唱えるだけでも十分に効果を感じられますが、複数の人々が祈りを捧げたり、ポジティブな言葉を発したりすることで、エネルギーが増幅されるという特徴も持っています。
この現象は「集合意識」の力と関連しており、多くの人々の祈りや言葉が、病気の治癒を早めてくれるというケースが世界各地で報告されています。ちなみに集合意識の力とは、多くの人々が同じ願いや思いを共有し、言葉や祈りを通じてエネルギーを集約する現象のことを指します。このエネルギーは、一人では生み出せない大きな力を生み出すことができるため、病気治癒の他にもポジティブな変化を引き起こす効果があるとされています。たとえば祈りやマントラの詠唱など、共鳴する言葉が集合意識を高め、対象となる人にポジティブな影響を与えてくれるのです。科学的研究でも祈りが病気回復に寄与する可能性が示唆されており、集合意識は奇跡の源とも言える力でしょう。

言霊が生んだ病気治癒の実例

言霊が病気を治した実例として、実は数多くのエピソードが世界中で挙げられています。末期がんを患っていたある患者が、毎日「ありがとう」と「必ず治る」という言葉を唱え続けた結果、医師も驚くほどのスピードで回復したケースもあります。また、慢性的な痛みに苦しむ人が、言霊を使って自分自身に、この痛みから必ず解放されると宣言し続けたことで完治したという報告もあります。こうした事例は、言葉が持つ力が単なる理論ではなく、実践的な治癒手段であることを示していると言えるでしょう。

最後に

ポジティブな言葉を日常的に使い、意識的に自分自身に語りかけることで、言霊の力が脳と身体の自己治癒力を活性化してくれ、病気からの奇跡的な回復をもたらしてくれます。言霊を信じ、その力を引き出すことで、どんな病気も克服できる可能性があるのです。言霊は、私たちに病気を治す力を与えてくれる強力なエネルギー源。「言葉には力がある」――そのシンプルな真実を日々実践し、健康な未来を切り開きましょう。

食生活も大いに関係があります

以下の書籍は大いに役立つと思います。(大江幸久)


聖徳太子-天武-役行者-空海 神仏習合で伊勢祭神を守る

仏教を国教化した聖徳太子は、その当初より、神仏習合を前提としていました。日本武尊(やまとたけのみこと)が逝去した直後より、神道祭祀に大きな変更が加えられてしまいました。その事実は西宮市廣田神社の由緒書きから読み取れます。

そこには、「大正14年に時の皇后陛下が、全国の官国幣社に御奉納遊ばされたる『神ながらの道』の一節に『伊勢神宮の内宮様の御本宮には天照大御神様、即ち和魂の神様をお祀り申し上げてございます』又一節に『荒魂(あらみたま)とは和魂(にぎみたま)を「実現する魂」でございます』『宮中の賢所は、応神天皇の御時から天照大御神様として和魂のみを御祀り申し上げ、之に応じ給う荒魂は摂津の官幣大社廣田神社に御祀り申し上げてございます』と記されたるを見ても、如何に尊貴の大神なるかを窺ひ知るに足る。」とあります。

つまり、武内宿禰・神功皇后・応神天皇の御世に、宮中の賢所で天照大神のご神鏡と並んで祀られていた瀬織津姫のご神鏡が、六甲比命神社の里宮と考えられる廣田神社に遷された、という一大事件です。これを正当化するために『我が荒魂をば、皇后(皇居)に近づくべからず。まさに御心を広田国に居らしむべし』(日本書紀)と、ご神託をねつ造したものと思われます。ここから推測できるのは、元々は伊勢神宮内宮東正宮に天照大神が祀られ、西正宮に瀬織津姫が祀られていた、という当初の祭祀形式が、まさにこのタイミングと同時に変更され、正宮から北(西)方向約150メートルに位置する荒祭宮に、瀬織津姫の御神鏡が天照大神荒御魂として祀られるようになった、ということです。

『ホツマツタヱ』によれば、伊勢神宮の内宮と外宮はBC4年ごろにともに創建されたことが記されています。しかし、外宮は内宮創建の約500年後の西暦478年創建とされています。これは外宮の創建ではなく、再建であったのです。つまり、内宮の一大改変の時に、外宮は完全に消滅させられた、という惨状に見舞われた、ということです。

聖徳太子は、この改変の惨状に気づき、伊勢の祭神がまともに祀られていないことに対して、神仏習合という方法を以って、改めていこうと考えたものと思われます。豊受大神を虚空蔵菩薩、釈迦如来に、天照大神を雨宝童子、毘沙門天、阿弥陀如来などと習合させ、瀬織津姫を如意輪観音、吉祥天(のちの弁財天)、様々な観音に習合して祀り、神仏を共存させる聖徳太子の一大事業ですが、それを継承したのが、インドから渡来した法道仙人であり、続く7世紀の天武天皇・役行者であり、8世紀から9世紀に活躍した空海であったのです。裏面の地図にあるように、聖徳太子・役行者・空海の生誕地、天武・持統合葬陵が一直線で並ぶことには、日本の神々の御意志が働いていることを示しているといえるでしょう。

空海は中国長安の青龍寺で、恵果阿闍梨から密教の全てを授かりました。その場所は空海生誕地の真西に当たります。密教は、もともとは国常立命の御子の一族、夏王朝を開いたカ(か)の一族のものであり、それを日本に取り戻した、というわけです。中国の文明は国常立命の知恵に基づいてできたのであり、その後の激しい政争はあるものの、日本は、韓国同様、中国と上手に交流を続けていかなくてはなりません。

国家間の緊張関係を煽り、民族間の不和を生み出すような行為は、御神意に反する大罪です。

「どんなにあなたがいい勉強をしていても、いい恋愛をしていても、何をしていても、そんなのはいっぺんにしてなくなっちゃうのが戦争なの。だから絶対に戦争はしてはいけないということをみなさんに知っていただきたい」(黒柳徹子さん、2025年7月10日)

戦争の放棄=縄文思想 平和憲法・憲法9条は縄文精神の蘇り 全世界戦争放棄!

今でも戦争は軍産複合体のビジネスとして、政治家を使い、常に国家間の緊張状態を作り上げ、大半の大手マスメディアがそれを推進します。意図的な扇動と気づかぬまま、一般の人々が、民族排外主義に毒され、特定のアジア諸国に対して嫌悪感を持たされていることは、大いに警戒しなくてはならないことです。54基もの原発があり、食糧自給率が3割程度、資源、エネルギーに至ってはほとんど自給できない日本が戦闘状態に入れば、すべての今までの日常生活は崩れ去ります。平和的な外交、特に近隣諸国との積極的、意識的な友好関係の維持=善隣外交、国民どうしの文化的交流、健全な経済関係こそ大切です。そうすれば、武力など不要、あるいは大幅に縮小でき、その分をいとも容易に教育や社会保障に充当できるのです。

戦前の極右は、天皇の御意志を蹂躙して戦争に突入させ、その結果、国内外の人々の平和な生活を破壊し、兵士の6割以上を餓死=野垂れ死にさせ、731部隊など、一部は非人間的な犯罪に加担し、沖縄戦では日本兵が食料強奪、強制動員、スパイ容疑などで一般住民を殺害し、戦後直後には皇室の存続を危うくすることとなりました。これに対して無反省のままです。

[神代文字] (トノヲシテ)=トの教えに沿う

日本の神代からあった、平和な社会を実現し、維持していく様々な教え。それがホツマツタヱに記されるトノヲシテ=トの教えです。トノヲシテの象徴であり、また三種の神器の一つである勾玉(まがたま)とは、常に肌身離さず神の教えを守る、そのモノザネ(象徴のお守り)としての意味を持つものです。トノヲシテに沿う社会では、時代の変遷によって強調すべきことや、新たな決まり・警告も加わるものと言えますが、ここでは平和憲法をテーマとしています。

「武力で争うのではなく 和して生きることが 誠の大和の道」 (天照大神のお言葉)
このお言葉は『ワカヒメさまの「超」復活!』P282の文章を要約したものです。トノヲシテの核心は「和(やわ)す・尽くす」です。武力を不必要に行使すること、乱用することを天照大神が厳しく戒めておられることが「ホツマ」に記されています。三種の神器の草薙の剣とは交戦を阻止するためのものであり、関西ホツマの集いの小池正人氏の推定のとおり「イクサ(争い)を凪ぐ(ナグ)=鎮める」という意味を込めて天照大神が命名されたものです。(『瀬織津姫さま言霊リメンバリング』P241) 古事記にも言向け和す(ことむけやわす:原文は「言向和平」)という言葉が何度も使われ、争いの解決に際して、後に禍根を残す愚鈍で性急な武力行使ではなく、言葉によって和しおさめることの賢明さ・重要性が説かれています。大和魂は、「武勇」や「勇猛果敢」ではなく、神代より続く和の心であり、意見の異なる人や異なる民族とも大いに和してともに平和な社会をつくり、維持しようとする精神です。


一万年戦争のなかった縄文精神の甦り=平和憲法と皇室・高天原

平和憲法を守る・9条を守ることは神のご意志に沿うことである。善隣外交ならば、戦争の惧れはなくなり、防衛費は大幅に縮小可能である。改憲9条改定は即徴兵制実施となる可能性が大きい。武器輸出などもってのほか!政府が戦争可能体制・戦争ビジネス推進に舵を切っているため、自衛官応募者数はすでに激減しており、早晩男女を問わぬ徴兵制を敷くことが必要となる。

終戦直後の1945年9月25日、昭和天皇が「ニューヨーク・タイムス」クルックホーン記者と会見されました。記者の「最新の武器(核兵器)が将来の戦争をなくすことになるのでは?」の質問に対して、昭和天皇は「…武器を使うことで恒久の平和が確立され維持されるとは思えない。平和の問題の解決は、勝者も敗者も軍事力に頼らず、自由な諸国民の協調によって達成されるであろう」とお答えになりました。

前文と9条に示される平和憲法の基本理念は、昭和天皇によってすでに打ち出されていたのです。戦前は、軍部から軟弱外交として非難され、国賊扱いされた幣原喜重郎元外相が、戦後、昭和天皇により総理大臣に抜擢されました。幣原氏が、昭和天皇の平和実現の理念を、憲法の条文として起草した、と捉えるのが妥当でしょう。日本の仏教諸宗派、キリスト教諸団体、その他の宗教団体もおおむね改憲には反対で、改憲(9条改定、緊急事態条項制定)を主張している宗教団体は皮肉にも、神社本庁だけです。神職の方々は再考をしていただきたく思います。(大江 幸久)

筆者大江は、昭和天皇の1945年9月25日のご発言の源泉は、縄文以来の高天原の神々の御意志に基づくものである、とずっと確信しておりました。それを確かめる機会がありました。

◎令和4年4月25日 西宮の地に於いて

瀬織津姫と二見浦マフツの鏡と宝鏡寺・小泉八雲 鏡の乙女

再話文学、小泉八雲の『鏡の乙女』は不思議な鏡の精の物語です。京極今出川=おそらく京の都の出町柳辺りの井戸の奥深くに、百済滅亡の折、百済から渡ってきた由緒ある鏡が落とされ、長年忘れ去られていたのですが、伊勢の松坂から京の都に来ていた神官、松村兵庫によって拾い出されました。その鏡の精は乙女の姿となって、神官のところへお礼とお願いに参ります。「弥生」と名乗る鏡の乙女は、かつては嵯峨天皇の元で大事にされ、初代賀茂の斎王にわたり、藤原道長にも秘蔵されたこともあったものの、保元の乱の際に井戸に落とされ、そこに棲んでいる毒龍に長年服従させられていたそうです。その龍が天帝の命令により信州へ移ることになったことを伝え、最後に、御縁のあった皇室の末裔である、ときの将軍足利義政公の元へ自身(鏡)を献上してほしい、と願いを託します。

筆者はこのような奇談は単なるフィクションであろう、と思い込んでいました。けれども気になって、鏡が献上されたとする足利義政を調べると、その系統が嵯峨天皇とつながることから、乙女の言ったとおりであり、物語はある程度、正確な史実を土台としている(細部では矛盾点もある、という説もあり)ことがわかりました。鏡に記された日付が瀬織津姫のご生誕と同じく3月3日で、「弥生」と名乗ったことも興味深いものがあります。

それでは、その鏡は現在もあるのかと思って調べてみましたが、最も可能性の高い銀閣寺を調べても、判然としません。池の名前が錦鏡池であることぐらいでしょうか。そうこうするうちにネット検索で義政公の肖像画を発見しました。なんとそこには足利義政とともにその霊鏡と思われる鏡が描かれています。男性の肖像画にわざわざ鏡が描かれるのは異例です。まさに「鏡の乙女」に登場する不思議な由来を持つ鏡であるがゆえに、あえて肖像画に描きこんだのではないでしょうか。「鏡の乙女」は奇譚(きたん)・作り話ではなく、史実として、実際にその鏡も存在していたのかもしれません。

足利義政は政治的には、奥方である日野富子の方ばかりが目立って、大した功績は残してはいませんが、文化的な面では、後の世に残る重要な貢献をしています。鏡の精も、足利義政公ならば大切にしてくれることが分かっていたのでしょう。ところで京都には、極めて珍しい、鏡を持つ聖観音を本尊とする宝鏡寺という門跡寺院があります。この宝鏡寺と足利義政・日野富子が関係することがわかりました。

室町時代、1426年頃、宝鏡寺は嵯峨・天龍寺近くにあったという。現在地には、足利義政(1436-1490)・日野富子(1440-1496)夫妻の住した小川御所(小川殿)があったという。1474年、義政は不仲な富子、息子の義尚(後の9代将軍)と別れ、花の御所から小川御所に移る。1476年、花の御所が戦火により焼失した。富子・義尚も小川邸へ移り住む。義政は東御殿に、富子は西の御所に別れて住んだという。

宝鏡寺にはこの鏡が今もなお保管されているかもしれない、と期待したものの、この物語の元となる、暁鐘成(1793‐1861 大坂の文人、名所図会作者として有名。「西国三十三所名所(瀬織津姫を観音として祀る霊場)図会」の作者)編の『当日奇観』という本の巻第五「松村兵庫古井の妖鏡」の結末には、この鏡は将軍家より、百済ルーツの大内義隆氏に下されたものの、戦乱により鏡の所在はわからなくなった、ということのようです。せっかく救い出された鏡、鏡の精が可哀そうです。

さて、この宝鏡寺にはもっと驚くべきことが隠されているのです。宝鏡寺の名前の由来である本尊の、鏡を携えた聖観音は、実は瀬織津姫様が伊勢の二見浦でご活躍されたことを仏教的な姿で表現したものなのです。

『トノヲシテ 瀬織津姫さま言霊リメンバリング』の脚注より。

マフツノ鏡 ホツマ 8紋
以下は今村聰夫氏『はじめてのホツマツタヱ』から引用。
~こうして六度にわたって起こったハタレ騒動はすべて鎮圧され、悪霊に取り憑かれていた総勢七マスと九千人(709,000人)すべてが、最終的に人の魂を取り返すことができました。それはセオリツ姫が携えていたマフツの鏡によって、己の魂を実見することができたからなのです。常々天照大神は海辺にマフツの鏡をもってお出ましになり、海水で禊をされた後、ご自身や政事を執る臣、その他諸々を写して見られました。それにちなんでこの海岸にある岩を「ふた見の岩」と名付けられたのです。~
京都市上京区宝鏡寺は、伊勢二見浦で漁網にかかった、両手に鏡を持つ聖観音を本尊とする。この不思議な経緯で出現し、皇族に守られた観音像はもちろん瀬織津姫の二見岩でのご活躍が背景にあるものと思われる。観音は神仏習合で、日本の女神と習合したものと思われる。聖徳太子が念持仏とし、神呪寺を創建した真名井御前が帰依した如意輪観音や吉祥天も瀬織津姫の仏教的御姿と考えられる。

宝鏡寺では、春と秋の期間に人形展が催され、その時に本堂ほかの御開帳もあるのですが、現在のところ、この鏡を抱く大きさ約30センチの聖観音は非公開のままとなっています。
人形展期間中、普段は公開されていない、天皇と皇女の謁見の間を拝観することはできます。その部屋の一番奥の屏風絵(襖絵?)には、瀧が描かれています。しかも、その背景にあたかも鏡であるかのような、あるいはオーブであるかのような円形が描かれています。

景愛寺として13世紀末ごろに創建され、その法灯を継ぐ宝鏡寺は、皇室ゆかりの門跡寺院です。皇室は高天原と地の民をつなぐ大切な役割を持つ特別な存在であり、トノヲシテ、メの道、ヲの道をお守りになっています。そのような見方からするならば、ここ宝鏡寺は、メの道の守りの地と言えるのです。

2017年3月筆者は、宝鏡寺に『トノヲシテ 瀬織津姫さま言霊リメンバリング』を献納しました。室町時代、二見浦でこの宝鏡寺の御本尊が漁網にかかって以来600年以上にわたって、その意味は全く不明であったのですが、これにより、なぜこの聖観音が二見浦で御出現されたのか、なぜ鏡をお持ちであるのか、なぜ皇室へ、しかも皇女の集う尼寺へ安置されることになったのか、その必然的理由を、お寺の方々にもよくご理解していただけたもの、と勝手に楽観的に推測しております。

この小論に関しては、ユーチューブ「トの教えちゃんねる」の24回目『銀閣寺の怪談!?』でビジュアルに解説しています。ぜひご覧ください。


伊勢 金剛證寺に豊受大神と天照大神・瀬織津姫!!

伊勢神宮の原型の朝熊神社・朝熊御前神社と併せ、伊勢神宮の真相を明かす超重要な聖地!!

伊勢神宮の東方に位置する朝熊山(あさまやま)山頂にはかつて朝熊神社が鎮座していましたが、明治になって焼失し、そのまま再建されることなく、現在は八大龍王を祀る神社が鎮座しています。朝熊山の金剛證寺(こんごうしょうじ)はかつて山頂に鎮座していたこの朝熊神社を含む一帯を境内地とする寺院で、伊勢神宮の奥の院と位置付けられています。かつての朝熊神社を奥社とみなすならば、その里宮としての位置づけとなるのでしょうか。

五十鈴川下流に鎮座する朝熊神社・朝熊御前神社は、伊勢神宮内宮摂社の第1位と第2位の格式の高いお社です。五十鈴川の対岸には寛文3年(1663年)に創建された鏡宮神社もありますが、元は朝熊御前神社として、同じ境内に祀られていたお社を遷したようで、朝熊神社と対をなす位置関係で祀られています。境内の東に鎮座する朝熊神社祭神は大歳神(おおとしのかみ)、苔虫神(こけむしのかみ)、朝熊水神(あさくまのみずのかみ)、そして同じ境内西側に鎮座する朝熊御前神社の祭神は朝熊御前神(あさくまみまえのかみ)です。本来は、朝熊神社が天照大神、朝熊御前神社に瀬織津姫の御神鏡をお祀りしていたのではないかと推定されます。このような祭神変更は、伊勢神宮別宮伊雑宮・佐美長神社でも行われた形跡が顕著です。

ウイキペディアによれば、鏡宮神社祭神は岩上二面神鏡霊(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)で、鏡を依り代としています。社名「鏡宮」は元来、朝熊神社の異称の1つであったそうです。朝熊神社で白と銅の2面の鏡を奉安していたことに由来する名で、寛文3年(1663年)に朝熊神社の御前社として鏡宮神社が再興されました。金剛證寺とこの五十鈴川河口近くの朝熊神社と伊勢神宮内宮正宮を結ぶと、ほぼ二等辺三角形となるのも興味深いことです。また、朝熊神社・朝熊御前神社は伊勢外宮の真東に位置しています。内宮の四至神(みやのめぐりのかみ)は、朝熊神社・朝熊御前神社の遥拝所だったそうです。普段は無人ですが、今も別宮に次ぐ厳粛な祭祀が催されていることなどから、神宮側から特別な扱いを受けているお社ということが分かります。

◎金剛證寺
伊勢の式年遷宮の次の年に伊勢の奥の院である金剛證寺の秘仏、虚空蔵菩薩のご開帳があります。江戸時代には「お伊勢参らば朝熊(あさま)をかけよ。朝熊かけねば片参り」と言われ、多くの参拝者たちはこちらにも訪れていました。
金剛證寺山門では、表側には一対の金剛力士がお寺を守護しています。その裏側に、雨宝童子と明星天子が祀られています。雨宝童子は他に長谷寺、中宮寺等に祀られていますが、仏教界では、天照大神十六歳像として有名です。ペアで祀られる、この虚空蔵菩薩の化身、権化ともされる明星天子こそ、瀬織津姫に違いありません。聖徳太子を導いた京都六角堂の唐崎明神=瀬織津姫はかつて明星天子菩薩と呼ばれていました。このようにして二神の陰陽の関係が金剛證寺において守られているのです。かつての朝熊山山頂には朝熊神社があり、おそらく天照大神と瀬織津姫が並祭されていたはずです。まさしく「伊勢へ参らば、朝熊をかけよ」なのです。

朝熊岳『金剛證寺典籍古文書』には、「雨宝童子は左手に摩尼宝珠を持ち、財宝を雨の如く降らし慈悲仁徳の良政を標榜し、右手には十束の劔を宝棒として服従せざるものは破邪の劔を振って平定するというという貌(かたち)をとっておられる。」とあります。
以下はウイキペディアより:

創建は6世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かでない。平安時代の825年(天長2年)に空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられている。なお鳥羽市河内町丸山539の庫蔵寺(真言宗御室派)は、空海が当寺の奥の院として建立したという。
神仏習合時代、伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢・志摩最大の寺となった。虚空蔵菩薩の眷属、雨宝童子が祀られており、当時は天照大御神の化現と考えられたため、伊勢皇大神宮奥の院とされた。それらから、仏事に用いられる樒(しきみ)ではなく、神事に使われる榊(さかき)が供えられる、全国でも珍しい寺である。

「欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てた」、という事実から、皇室は仏教を介して、神仏習合という方法によって、何よりもまず、伊勢神宮内宮で消された瀬織津姫の祭祀を守る姿勢をとっていたことがわかります。神仏習合は、聖徳太子から始まったのではなく、それより前、仏教伝来直後、欽明天皇の御世から始まっていた、ということです。

菊池展明氏の『エミシの国の女神』には、その本堂の秘仏虚空蔵菩薩の裏には、男神の天照大神像が秘かに祀られている、とあります。金剛證寺には、境内に天照大神の16歳の男神像が複数祀られ、空海作の雨宝童子も所蔵されています。世間一般には、天照大神は女神と思い込まされていますが、本当は男神であることを示すお寺と考えられます。金剛とは男神天照大神であり、それを證明(証明)するためのお寺なのでしょう。

もう一つ大切な点、すなわち伊勢神宮は朝熊神社・朝熊御前神社と同様、同じ規模の正殿が相並ぶ構造を有していたものが、後の世に崩されてしまい、正宮に天照大神、そしてその北西、正宮の規模を縮小した荒祭宮に瀬織津姫が祀られ、陰陽のバランスが崩れ去っていることを憂えて、朝熊山の寺社が、本来の祀り方を維持してきたのです。

本尊の虚空蔵菩薩は日本3大虚空蔵菩薩の第1位といわれています。この秘仏は、伊勢神宮祭神と対応させるならば、外宮の豊受大神に相当するものと考えられます。豊受大神は『ホツマ』や伊勢神道によれば、国常立命と同神・同系統の神と捉えられ、虚空蔵菩薩と表現するにふさわしい神です。雨宝童子と明星天子は虚空蔵菩薩の眷属として祀られています。『ホツマツタヱ』や伊勢神道に描かれている通りの、伊勢神宮の神々の関係を正しく守っている重要な寺院です。

(令和5年1月 林泰寛(大江幸久)記す 令和7年11月8日改定)
※ユーチューブ「トの教えちゃんねる」:「お伊勢参らば朝熊をかけよ。朝熊かけねば片参り」「総集編 伊勢神宮創建」でビジュアルに紹介しています。ご覧ください。


ホツマの文脈で瀬織津姫を語ることの重要性

(令和2年8月 林泰寛 (大江幸久)記す)

私は2006年神話研究ブログを開設し、丹後、因幡、そして特に六甲山とその周辺の実地調査・研究を通して、それら神話伝承・遺跡と『ホツマ』の相関性の高さを確認してきました。これは単に個人的主観ではなく、客観的にそう結論付けられるものなのです。

国常立命の建国理念は、豊受大神・天照大神の治世のときに、トノヲシテ=トの教えとして明確化され、その理念のもとに、日本国内で理想の社会が形成されていたことが『ホツマ』には記されています。日本はこのような、神による建国がなされた世界でもまれにみる貴重な国です。『ホツマ』には、人の体をもってご登場され、ご活躍された日本の神々が御自ら示された、その理想の国の建国の過程で様々な困難があったことも、後の世への教訓として記録されているのです。これらの事実をもっと真剣に知ることが大切です。そしてそれらの経験、そこから導き出される教訓を、現代社会に活かしていくことが求められています。

この点から、瀬織津姫の事だけに限りませんが、神々の諸関係についてできる限り正確に知り、矛盾のない神代から続く歴史の真相を追っていかねばなりません。特に六甲山の実地調査等を通じて、瀬織津姫とワカ姫、菊理姫そしてタナキネ=天穂日命は豊受大神・天照大神のご意向に基づいて、精力的にご活躍をされていることが判明しました。

瀬織津姫に関して、残念なことに、個人的・恣意的な思い入れに陥る、少なからぬ諸氏の著作や、ネット上の様々なサイトで、彼らの私的イマジネーションに基づくフィクションが流布されています。日本の神々がご活躍された事実を比較的正しく描いたホツマの文脈から切り離してとらえることは、あまり好ましくありません。特に、恣意的に神々の関係を作り上げ、例えば大した検討もなさぬまま、瀬織津姫をニギハヤヒのお后としてとらえ、それを吹聴することなどはもってのほかです。瀬織津姫は男神天照大神の十二后の中の皇后であり、豊受大神・天照大神の御意志に沿ってご活躍された、そして今もなお日本をお守りなされている尊い神です。

日本の神々が願われているのは、「和(やわ)す・尽くす」の常世の国=ホツマの精神、トノヲシテ=トの教えの復興です。(記紀はその理念を見事にすべて削除したシロモノです。)トノヲシテを一切語らず、そこから外れて、日本の神を語り、神話研究をしてもほとんど意味はない、といえるでしょう。


ホツマと記紀他古史古伝の決定的な違い

(令和5年2月 林泰寛)

伊勢神宮を崇敬される皆さん、『記紀』は伊勢神宮祭神を軽視・無視・冒とくしていることに注意を払ってください。

古事記編纂の直前、神代文字で書かれた歴史書が、ことごとく焚書されました。「神代文字 焚書の詔」とでもいうべき詔勅が出されていたのです。続日本紀(797年)によれば、それは元明天皇の御代に実行されました。
「全国に大赦を行なう。和銅元年(708年)一月十一日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、すでに発覚した罪も、まだ発覚しない罪も、獄につながれている囚人もすべて許八虐を犯したもの、故意による殺人、殺人を謀議して実行し終ったもの、強盗・窃盗と律により平常の赦には許されないとしている罪は、この中に入れない。山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罪する」とあります。

この詔の直後、712年(和銅5年)1月古事記が完成しました。古事記・日本書紀編纂以前に少なからぬ古史古伝が存在していたことは、この詔によって明らかです。当然、伊勢神宮に伝わる文献もその対象であったことでしょう。この時代、すなわち686年天武天皇亡き後、持統天皇の背後で暗躍した藤原不比等は、その後も元明天皇など女性天皇を隠れ蓑として政治支配し、日本の歴史改竄を実行していた首謀者と捉えるのが妥当でしょう。

鏑邦男氏の『[神代文字](ホツマツタヱ)のすすめ』に、「松本善之助氏がホツマツタヱを発見された昭和41年の翌年、42年に福島県の山中の古い温泉宿の建物を壊した際、漆塗りの大きな木櫃、47箱もの大量のホツマ文書が発見されました。この文書は現在宮内庁に保管され解明中の模様です。この文書が公開されるなら日本の歴史が明々白々となることは間違いありません。」と記されています。東北はかつて、多賀の国府(多賀城)で豊受大神が宇宙の根源の神を地上にて祭祀していた地方であり、道の奥義が秘められた重要拠点(陸奥みちのく)だったのです。近江高島で長らく保管されていたもののようで、所縁の地に移され、保管されていたものと思われます。

さて、アカデミズムは瀬織津姫の事が詳しく記されたホツマツタヱには「偽書」として、研究対象としていません。歴史学界では神代の事象が記述された書物では、古事記・日本書紀しか認めていません。数多くの神代文字で記されたいわゆる古史古伝は、一律に偽書扱いで、それらに基づく論考など、学問研究から逸脱した尋常ならざる沙汰とみなされます。

ところで、私たちの先祖でもある日本の神々が神代の時代に活躍されたのは間違いのないことであり、そうであるがゆえに全国津々浦々に伊勢神宮をはじめ、神々を称える神社があり、また天照大神を祖とする皇室も存在しているのです。日本の神々は果たして世界でもっとも古い建国の歴史を持つ日本の社会をお守りするために様々な御教えを皇室に、人々に一切残さなかったのでしょうか。実は、『ホツマ』には神々の教えが多く記されています。聖徳太子が編纂を命じて秦河勝が完成した『先代旧事本紀太成経』72巻本にも神の教えが記録されています。正史とされる記紀には神々の教えは皆無、その他古史古伝もほぼ無きに等しいのです。この点だけで、記紀も含めて、他の古史古伝との信頼度の違いが如実に表れている、と言えます。つまり神々のみ教えがしっかり掲載される書物と、それが一切削除される文献とでは雲泥の差があり、決して同列に扱えるものではない、ということです。しかし、皆さんがよく目にするユーチューブなどネットの情報では、有力なインフルエンサーたちが、ホツマと、他の記紀・古史古伝を明確な区別なく論じていますが、神々のみ教えの有無という最も大事な観点を欠落させている、ということに留意してください。

特に部分的に『ホツマ』の内容との類似性がみられる古事記・日本書紀では意図的に、豊受大神・瀬織津姫・ワカ姫をはじめ特定の神々の活躍を消し去り、神々の教えを削り取っています。ホツマでは天照大神・瀬織津姫をご指導される外宮祭神の豊受大神は、天照大神の祖父、伊弉冉命の父君として登場します。日本書紀では、豊受大神と伊勢神宮外宮については全く記されていません。古事記では豊受大神は豊宇気毘売神という女神とされ、和久産霊神の御子とされますが、和久産霊神は伊弉冉命のユマリ(尿)から生まれたと記しています。神をあまりに冒涜する歪曲が平然となされているのです。神の教えを伝えない、そぎ落とす、とは、神への反逆行為です。この点だけからも、記紀がいかに悪意をもって作成された書物であるかということが判明します。

果たして、何を以て偽書とするのか、多様な日本の伝統文化の根源を、記紀では全く解明不能ですが、ホツマによって数多く理解できてしまう、という結果から、そろそろ偽書か否かも見直すべき時代が到来しています。


伊勢 御神鏡の移動 遷宮の意味

(令和2年9月 林泰寛 試論)

伊勢神宮では、西暦690年よりほぼ20年ごとの遷宮が実施されてきました。御神体の御神鏡を新たな神殿に遷すことを中心行事とする遷宮の前後にはしばらくの間、新しい神殿と古い神殿の両方が並びます。実は、この新旧の正殿、つまり南面する東西の2つの正宮が常に並ぶ状態が当初の祭祀様式であったようです。「天子南面す」のとおり、東の宮に男神の天照大神が、西の宮に、現在は荒祭宮に祀られているお后の瀬織津姫が鎮まっていたと考えられるのです。

事実、明治22年の式年遷宮以前は常時、東西(新旧)の両宮が並んでいました。それ以前の遷宮の核心とは、新しい神殿に天照大神の御神体である御神鏡を遷すことだったのです。御神鏡を遷してその約19年後、今度は隣の神殿を解体して新しい神殿を建てます。翌年の20年目に御神鏡をこの新しい神殿に遷します。20年の間、御神鏡が鎮座していた古い神殿は御神体の無いまま、さらに約19年建ち続けます。そして建築から約39年後に全て解体して新しい神殿を建てる。これが690年から1889年(明治22年)まで繰り返された遷宮の様式でした。

内宮の荒祭宮祭神が、古くは正宮の場所に並んで祀られていたことを、伊勢神宮も認めています。伊勢神宮所管、三重県大紀町に鎮座する別宮瀧原宮・瀧原竝宮(たきはらのならびみや)の由緒書には、

御祭神
瀧原宮:天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)
瀧原竝宮:天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)
瀧原宮、瀧原竝宮とも天照坐皇大御神御魂をお祀りしています。 天照大神は国の内に隈無く光が照り徹ると称えられる、日本人の大御祖神です。その御魂をこのように二宮に並べてお祭りするのは、皇大神宮(内宮の正殿)に天照大神を、同別宮(荒祭宮)に天照大神の荒御魂を奉祀する姿の古い形と言われています。江戸後期編纂の『太神宮儀式解』に、竝宮について「瀧原宮は本宮(皇大神宮)の御霊を拝奉るなり。その瀧原宮の御神の荒御魂をまつる歟(か?)」とあるように、(瀧原竝宮祭神は)天照大神の荒御魂とも考えられているのです。

と記されているのです。伊勢神宮の由緒書はすべて皇室の指導のもとに作成されていますので、上記の見解も当然、皇室の見解となります。こちらの御宮では、まず東の瀧原宮をお参りしてから西の瀧原竝宮をお参りするという決まりごとがあります。これは外宮先祭と同様、内宮祭神よりも外宮祭神の方が優先される考え方と通じるものがあります。太陽が昇る東が男性、西が女性という並び方を今に伝える京の有職雛(ゆうそくびな)も古式の伝統を維持しています。

この由緒書の文面、そして参拝順序の習わし、有職雛の並び方から、瀧原宮には男神の天照大神が、瀧原竝宮には荒祭宮祭神、瀬織津姫が祀られている、ということになるのです。

伊勢神宮内宮に話を戻します。興味深いことに、正宮と荒祭宮の祭事の時の神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等であり、荒祭宮祭神と正宮(皇大神宮)への崇敬の度合いは同格となっています。一方で、天照大神のお役割の大きさを鑑みて、対等とはいえ、天照大神をより奥まった神殿で祀り、瀬織津姫が祀られる神殿は、一歩控えた位置関係で、同時に人々に直接相い対される、という意味も込めて、その差を示す印があるのです。それが、敷地の高さと階段の段数の違いに表れています。本来、瀬織津姫を祀るはずの西側の殿地と比べて、本来天照大神が常に祀られるべき東の正殿は2メートル近く敷地が高くなっており、その段差・高低差に伴い、階段も西側の正宮25段に対して、東側は39段と、段数が異なります。

さて、本来西の正宮に祀られていたはずの瀬織津姫の御神鏡は、一体いつごろから現在の荒祭宮に祀られるようになったのでしょうか。それを解明する重要な手掛かりが、西宮市の廣田神社由緒略記にあります。

荒魂について -廣田神社略記より抜粋-
大正14年に時の皇后陛下が、全国の官国幣社に御奉納遊ばされたる「神ながらの道」の一節に「伊勢神宮の内宮様の御本宮には天照大御神様、即ち和魂の神様をお祀り申し上げてございます」又一節に「荒魂(あらみたま)とは和魂(にぎみたま)を『実現する魂』でございます」「宮中の賢所は、応神天皇の御時から天照大御神様として和魂のみを御祀り申し上げ、之に応じ給う荒魂は摂津の官幣大社廣田神社に御祀り申し上げてございます」と記されたるを見ても、如何に尊貴の大神なるかを窺ひ知るに足る。

貞明皇后のこの御調べから、天皇の坐す宮中の賢所に祀られていた瀬織津姫の御神鏡が武内宿禰・神功皇后・応神天皇が活躍した2〜3世紀に廣田神社に遷されたことがわかります。これが日本書紀に記される「我が荒魂は皇居に近づくべからず、常に御心広田国に居ますべし」という明らかに歪曲された「ご神託」と符合します。つまり瀬織津姫の御神鏡を人為的に外へ移動するという宮中の一大事件と同時に、伊勢神宮においても大規模な祭祀様式の変更、つまり正宮から現在の荒祭宮への御神鏡の移動がなされた、と推定できるのです。

伊勢(いせ)とはイモ・ヲセ=女性・男性、つまり夫婦(めおと)を意味します。「伊勢物語」の著者(在原業平と考えられる)も、その意味を知っていたからこそ、この125の短編ストーリーがすべて男女の物語であるわけです。イモ・ヲセ(=夫婦・めおと)の道を学ぶ場所であり、常にお守りいただいていることへの報恩感謝、御神鏡に象徴される内省(自己をふり返り反省する)の場所であるはずの伊勢神宮では、遷宮前後の一時期のみならず、常時、東西の正宮が並び、天照大神と瀬織津姫の両祭神が祀られているのが本来の姿、と考えます。

伊勢の祭神・伊勢神宮を軽視・冒涜する古事記・日本書紀

伊勢神宮を崇敬される皆さん、『記紀』は伊勢神宮祭神を軽視・無視・冒とくしていることに注意を払ってください。
事実上、藤原不比等によって編纂された古事記・日本書紀は、本来ならば、伊勢神宮を日本の最高神を祀る聖地とみなして、その来歴はもちろん、祭神についても詳細に記されるべきですが、日本書紀では伊勢神宮外宮、及び祭神豊受大神についての記述は皆無です。雄略22年7月7日は丹後国の比沼麻奈為神社より、伊勢国山田へ豊受大神の御神霊を遷座する=外宮「創建」(実は再建)、という一大事があったにもかかわらず、このことは日本書紀では一切語られることなく、替わって同雄略22年7月7日の浦島太郎の常世國への出発が記載されています。伊勢の祭神よりも浦島太郎のほうをより重要と考える日本書紀編纂者の良からぬ意図が明確に表れています。

さらに、日本書紀は男神である天照大神を女神であると錯誤させる表記を使っています。
古事記では日本書紀同様、内宮の重要な祭神、瀬織津姫は抹消され、豊受大神・瀬織津姫・ワカ姫をはじめ特定の神々の活躍を消し去り、神々の教えを削り取っています。豊受大神は豊宇気毘売神という女神とされ、和久産霊神の御子とされますが、和久産霊神は伊弉冉命のユマリ(尿)から生まれたと記しています。神をあまりに冒涜する歪曲が平然となされているのです。神の教えを伝えない、そぎ落とす、とは、神への反逆行為です。この点だけからも、記紀がいかに皇祖神を愚弄・軽視し、悪意をもって作成された書物であるかということが判明します。記紀の作成者たちは、よくぞここまで侮辱しきったものだ、とあきれるばかりです。そこには伊勢の神々、皇室への尊崇の念を微塵も感じることはできません。ですから、持統天皇を矢面に建てて、実質再生の実権を掌握していた藤原不比等によって690年に始められた伊勢神宮の遷宮の意味についても、何も手掛かりを得ることができないのです。
(※ユーチューブ トの教えちゃんねる「式年遷宮 空地じゃないのよお隣は」、豊受舞ちゃんねる「歴史が覆る!?伊勢神宮極秘話」でビジュアルに紹介しています。)


伊雑宮と佐美長神社

『ホツマツタヱ』に基づけば、伊勢神宮の別宮であるイザワ宮は天照大神と瀬織津姫が最も長く居住されて、日本の国をお治めになっていたところです。(天照大神は晩年に現在の伊勢内宮へ御移りなされました。)

ここイザワ宮は、菊池展明氏の地道な調査によって、驚くべき事実が明らかとなっています。平安時代以降、イザワ宮は当初2柱の神を祀っていたものを、1柱として祭神名を玉柱屋姫命という由来不明の神名で祀られることになります。その後、明治になって突如として天照大神を祀る社として変更されます。もとはホツマの記述のとおり、天照大神と瀬織津姫の2柱を祀る神社であったはずです。
今は禁足の伊雑宮の杜の奥には2本の大きなご神木があるそうです。

イザワ宮社務所に用意されている由緒書きには、関連深き境外のお社として、佐美長(さみなが)神社が紹介されています。佐美長神社の神札もこちらの社務所で頒布されており、イザワ宮と佐美長神社には並々ならぬ関係があることが、このことからもうかがえます。イザワ宮から直線距離で700メートルほど南西に位置する佐美長神社は看板も出ていませんので、参拝の際は地図を事前によく確認しておく必要があります。

以下は佐美長神社についての玄松子さんのレポートです。

倭姫命が志摩地方へ巡幸した際に稲穂をくわえて現れた真名鶴を大歳神の化身として祀ったといい、真名鶴が稲穂を落としたので「穂落社」「大歳社」と呼ばれていた。江戸以前から大歳社と称されており、祭神は大歳神。素盞鳴尊の御子神とする説や、地元の穀物神とする説、天牟羅雲命の神裔・玉枉屋命の子孫である伊佐波登美神、あるいは伊佐波登美神の子孫であるなど諸説ある。

その脇の、普通の神社で見かける摂社よりもはるかに小さい4つの社が、佐美長御前(さみながみまえ)神社と呼ばれる神社で、参拝者が見下ろすような位置に鎮座しています。このお社こそ、かつてはイザワ宮に天照大神と並んで祀られていたはずの瀬織津姫の御神体を遷し祀っていると推定されるお社ですが、神社由緒書きには祭神について、なにも記されていません。

ウィキペディア「伊雑宮」の項目に重要な事実が記されています。

これらの事実に基づけば、奈良時代から平安時代の804年より前に、イザワ宮に元々祀られていた天照大神・瀬織津姫2柱の祭神を、天照大神1神のみの祭祀へ変更、さらに祭神名を変えて、同時に伊雑宮に天照大神とともに祀られていたはずの瀬織津姫のご神体を、佐美長神社本殿ではなく、佐美長御前神社に祀りなおしたもの、と推測します。このとおりとするならば、実に由々しき大問題です。


平安京と藤原氏、御神鏡の歴史

京の都平安京には、天照大神を祀る神社は極端に少ない、という不思議な事実があります。筆者は、これには平安時代の初期から中期まで皇室を事実上支配していた藤原氏が関与していたことが理由、と推定しています。藤原氏は、おそらく自分たちの支配を強固なものにするため、高天原と皇室が深くつながることを恐れ、妨害したのでしょう。

歴代天皇が、伊勢神宮へ行幸できないようにもされていました。祖神を祀る伊勢へ行幸されるのは本来ならば当然の事ですが、参宮できない政治的圧力がかかっていたのでしょう。伊勢神宮はかつて内宮・外宮とも社家の渡会氏が奉仕していました。しかし、藤原不比等が強引に内宮の社家を彼の意向に従う荒木田氏に総入れ替えし、以降明治になるまでこの体制が維持されたのは、天皇・皇室の伊勢参宮をできなくする意図があったものと思われます。天皇の皇女から選ばれた斎王が、年に2度だけ内宮での祭祀が認められるだけでしたが、この制度も鎌倉期に途絶えてしまいます。また、私幣禁断と称して、一般庶民が伊勢神宮の、特に内宮へ参宮することを、当初は制限していたようです。伊勢祭神と皇室、伊勢祭神と臣・民が、関わりを持たぬように、藤原氏が暗躍していた、という見方は妥当でしょう。

しかし、京の都の民は、渡来系の意向に沿った悪徳政治家や藤原氏のこのような策謀を見抜いていたのでしょう。祇園祭岩戸山では、男神天照大神と、鈴鹿山では、后神瀬織津姫がちゃんと祀られるようにしていたのです。

皇室にも、ホツマの文書のとおり、天照大神が男神であり、その諱(いみな)がワカヒト様であることが伝わっていました。その証拠の一つが、京都の鹿ケ谷の若王子神社です。こちらの神社では、

永暦元年(1160)年後白河法皇が、熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請して建立した若王子の鎮守社で、社名は天照大神の別称「若一王子」に因んでこのように名づけられた

とあります。若一とはまさにホツマに登場する天照大神の諱(いみな)のワカヒト様ではありませんか。この意味で若王子神社は非常に重要な神社なのです。後白河法皇は生涯に30回以上も熊野詣でをした天皇として有名ですが、伊勢祭神についてもよくご存じであったわけです。戦国時代、後陽成天皇は丹後の伊勢神宮の本当の奥宮、比沼麻奈為神社を参宮され、御宸筆の額を奉納されています。

宮中では第10代崇神天皇の御代に、ご神威があまりに畏れ多いとして、御神体の御鏡そのものを皇居の外で祀り始め、場所を二十数箇所変更しながら、最終的に天照大神が最晩年にお過ごしされた、現在の伊勢神宮で永続的に祀られることになりました。宮中では、その代わりの依り代の御神鏡が引き続き祀られ、今もなお皇居の賢所(かしこどころ)で祀られているのです。しかし伊勢神宮創建から200年経つか経たぬかのうちに、瀬織津姫の御神鏡は宮中賢所より遷されて、摂津の国、兵庫県西宮市の廣田神社に祀られるようになりました。これは渡来勢力が一挙に押し寄せ、仲哀天皇崩御後、70数年間続いた天皇不在の大空位時代に起こった出来事です。

廣田神社ホームページより

荒魂について -廣田神社略記より抜粋-
大正14年に時の皇后陛下が、全国の官国幣社に御奉納遊ばされたる「神ながらの道」の一節に「伊勢神宮の内宮様の御本宮には天照大御神様、即ち和魂の神様をお祀り申し上げてございます」又一節に「荒魂(あらみたま)とは和魂(にぎみたま)を『実現する魂』でございます」「宮中の賢所は、応神天皇の御時から天照大御神様として和魂のみを御祀り申し上げ、之に応じ給う荒魂は摂津の官幣大社廣田神社に御祀り申し上げてございます」と記されたるを見ても、如何に尊貴の大神なるかを窺ひ知るに足る。

確かに、応神天皇の御代以来、皇居から瀬織津姫の御神鏡が不在の時期がしばらくあった模様です。しかし、その状態がその後もずっと続いていたのかというとそうではなく、どうやら瀬織津姫の御神鏡は新たに鋳造されて、再び陰陽の祭祀が復活したようです。平安時代、『本朝世紀』に天慶元年(938年)宮中の斎辛櫃(いみからひつ)(御神鏡を祀る箱)二合と記録され、さらにその後、藤原実資(さねすけ)は『小右記(しょうゆうき)』に960年、宮中の賢所の火事の記録において、御神鏡は3枚あり、それらが伊勢太神・日前宮・国懸宮の神である、と記録しています。つまり平安中期には宮中で、おそらく豊受大神(伊勢太神)・天照大神(国懸宮)・瀬織津姫(日前宮)が祀られていた、といえる驚愕の事実を突きとめているのです。

以降、特に平安時代に度重なる宮中の火事による御神鏡の破損などを経て、時代の波にもまれながらも、真実とその重要性をご存じの皇室は、ひそかに天照大神・瀬織津姫の御神鏡の修復、再鋳造により並祭を続けていた、と思われます。この時代に集中して起こった宮中の火事は、意図的な放火であると捉えるのが当然であり、賢所の御神鏡が狙い撃ちにされた、と言っても過言ではないと思えます。

ウイキペディア嫥子(せんし)女王の項目に、伊勢神宮では、荒祭宮の神(瀬織津姫様)が

1031年長元4年6月17日、月次祭奉仕中に斎王嫥子(せんし)に神懸かりをされ、神宮祭主大中臣輔親に託宣を下した。斎宮権頭藤原相通とその妻藤原小忌古曾の不正を糾弾し、また斎宮の冷遇は天皇の失政であると朝廷を非難した。朝廷で対応が話し合われ、藤原実資は『小右記』に「斎王が託宣を告げるなどということは、前代未聞」と記している。藤原相通夫妻はそれぞれ流罪となった。

とあるように、当時の伊勢神宮の神官、および藤原氏が実権を握る宮中の、伊勢祭神に対する不敬極まりないもろもろの行為を改めるよう警告されていた、と考えられます。

稲田智宏著『三種の神器』(学研文庫)や「神殿大観」というサイトに、現在の賢所の御神鏡について記されています。

賢所(かしこどころ)は、八咫の鏡を奉安する神殿。伊勢神宮の天照大神を祀る。古くから宮中に祀られ、現在は皇居の宮中三殿の中心神殿。神器関連旧跡。賢所関連旧跡。伊勢神宮関連旧跡。内侍所東幸旧跡。近代天皇祭祀。通称は内侍所(ないしどころ)。平安宮では温明殿(うんめいでん)や春興殿(しゅんこうでん)に奉安されたためその殿舎の名でも呼ばれる。現在の賢所には2枚の鏡が祀られており、そのため神輿は2基用意されている。

現在も2つの神殿に2神の御神鏡が祀られているのです。表向きは賢所では天照大神(の御神鏡)を祀る、とされてはいるものの、実際は天照大神と瀬織津姫の御神鏡が並祭されているということです。応神天皇の時代、瀬織津姫の御神鏡が廣田神社へ遷座されたものの、皇室は元の陰陽の祭祀様式の重要性を考慮して、瀬織津姫の御神鏡の祭祀を、それほど遅くない時代に復活なされたのではないでしょうか。神奈川県葉山、葉山御用邸近くの神明社に天照大神と向津姫(瀬織津姫)が祀られているのも、皇室の方々のお働きによるものかもしれません。


六甲比命神社の祭神 六甲姫(向津姫)=瀬織津姫は全国各地で祀られています

ただし、地方によって全然異なった御名となっており、瀬織津姫と同一の神であることが分からなくなっている場合が少なくありません。瀬織津姫は、天照大神の后神ですが、男神である天照大神を、女神へと変更した一部の悪い権力者たちが天照大神の后神の存在を消そうとしました。

それ以前は、「伊弉諾命・伊弉冉命」のように、対偶神としての祭祀がなされていたはずの「天照大神・瀬織津姫」の並祭を無くし、瀬織津姫を別の神に変える、あるいは様々な御名を付けて、わからなくさせたものと思われます。全国各地の神社祭神を丹念に調べると、瀬織津姫と同一の神が実に多く祀られていることが判明します。

伊勢神宮では、3世紀ごろより現在まで、東正宮天照大神(2013年秋より2033年秋は遷宮制度により、古殿地)・西正宮瀬織津姫の並祭が崩され、あるいは見えなくされ、瀬織津姫の御神体の御神鏡は正宮の北に位置する場所、荒祭宮で、天照大神荒魂として祀られます。ただしもう一つの御神体である心御柱は、創建当初より祭祀様式はほぼ変わらず、現在も並祭されています。

では、瀬織津姫=向津姫の別の御名を列挙していきましょう。(※△印は祭神からの御観点から本来は好ましくない御神名と考えられるものです。)

(※ユーチューブ「トの教えちゃんねる」『決定版!瀬織津姫様特集』でビジュアルに紹介しています。)


御参拝ありがとうございます。当神社ではございませんが、年間約70もの神社が消滅し、消滅しなくても、一人の神主が30社以上兼務、神社の無人化もごく普通です。神様とのご縁を繋ぐために「賽銭を5円で」などの根拠のない語呂の流布も、神社が弱体化する要因と考えられます。崇敬する神社の維持を念頭に、ムリのない範囲で賽銭額や、授与品購入をお考え下さい。